覚え書き

有象無象の社会人のうちの一人が考えを整理する場所です。同じようなことを考えている方の役に立てれば幸いです。

雑記 200301

どんな理由であっても、どんな目的であっても、自分がやりたいと思うものに胸を張って時間を費やすのは、気持ちがいいことだと思う。

言わせておけばいいじゃないか。

下手くそ、何のために続けているのか、まだやっているのか、センスがない、そしてそれらの上を行く、膨大な数の無関心。

それでいい。わたしはわたしがやりたいことを重ねるだけ。どうなりたいかなんて、不特定多数のあなたがたに伝えることじゃないし、ただ感じたものを形にするだけ。

そうして生み出したものに誰かが触れてくれたら嬉しいけれど、嬉しいだけ。だから続けようとか、そういう契機にしたいんじゃないんだ。

私がいいなと思ったものを、私なりの方法で作ってみる。組んでみる。案外いいじゃないかと思ってみる。誰かに聞いて欲しいと思う。ただそのサイクルがあるだけ。

無関心には、無関心。なんだっていい。どうあったとしても、自信があるわけでもないわけでもなく、ただ日々のことや、感情の機微を表現する。

目的はあなたになんか伝えてあげない。こっちむいてくれたひとは、ありがとう。いつかお話しさせてね。

そうやって日常を重ねていく。そうありたい。

停滞ではなく、中長期的課題

復た、ひとたらしについて考えたくなった。

ひとたらしとおくりものについて。

 

唐突では歯が浮くようだ。

最大公約数では味気ない。

かといって覚えが良すぎるのも薄気味悪い。

 

適切な距離感を深く深く突き詰め、それをさも考えていないかのように振る舞う。

この土俵に立っている時点でひとたらしにはなれないけれど、

そこまで考えた上で「喜んでほしい」と心からの想いを込めて選ぶのなら、

その結論は凛としている筈だ。

 

愚かでも、其れを選ぼうじゃないか

ひとり、ありえない妄想、ひとり

皆きっとそうなのだと思う。思わせてほしい。

みんな、何かに託けて、縋って、紐づけていないと駄目になってしまう。

ひとりで走っているつもりでも、何かに寄りかかっている。

何かを蔑ろにして、その事実に蓋をして、気づかないふりすらしない。

ひとりでいたいという願望は本質的でない。

心の根っこが腐っている感覚。

今まではそれに焦りを感じていたが、今はなぜか落ち着いて受け止めている。

自分が舵取りをできるようにならなければならないとは分かっていても、どうしても楽な方に寝そべってしまう。

何故だろう?この心の有様は一体何なのだろうか?

 

日常、根底が少しずつ変わっていく

プレートの緩やかな動きのように。

少しずつ地盤が動いて、変わっていっている感覚がある。

変わりたくて、足掻いて、騙されて、利用されて、傷ついてやっと少しだけ変わることができた2年前とは全く異なる感覚だ。

学ぶだけの付け上がっていた存在から、立場が、環境が変わって、それはそれで打ちのめされ続けているけれど、確実に今までとは違う方向に伸びている。

ずっと意識し続けていた、「自分の中の関数を育てること」ができている。

ある入力があった時、それを極めて細かく分解していく。

自分のやらなければならないことは何か。人に頼まなければいけないことは何か。いつまでに成し遂げなければならないか。どういう言葉なら伝わるか。何回説明すれば理解してもらえるか。納得してもらえるか。

そして、私はその入力を通じて何を期待されているのか。その期待に対して納得感を見出すことができているか。

挙げればキリがないけれど、今まで「奪われるかもしれない」と思って没頭できていなかったことが、全て自分次第だと理解できた。

 

寄せては返し、せめぎ合いはあるけれど、その中でも前に動いている。緩やかに。

 

死にたい気がしているだけの現代人

文字通り、私たちは死にたい気がしているだけなのだろう。

命が断たれてしまうことに恐怖が無い訳などない。むしろ生き続けていたいとすら思うくらいだ。

だが、それと同じくらい、生の実感が得られない時、身の毛もよだつような恐怖心でどうしようもなくなるのだ。

「今、緩やかに死んでいっている」と感じる時、合理性を感じられない時、合理性を感じても納得できない時、抑圧で押し潰されそうになる時、

どうしようもなく狼狽えてしまって、脳が止まってしまうのだ。

命を投げ出したいなどという方向には向かわないけれど、命を削っている感覚に対して極めて敏感なのだ。