価値の源泉、この頃頭を渦巻いていること
この頃頭を渦巻いていること。
①25歳という年齢
今年、25歳になる。これで四半世紀生きたことになる。
「25歳という年齢」はもっとさまざまな決断や選択を迷いなくできるものだと思っていたが、そうでもないらしい。
日々強烈に迷い、明日を諦めてしまいたくなりながら何とか生き延びている、そんな状況が続いている。
しかし、ここ数ヶ月で今の環境に急速に慣れた実感がある。
答えはわからずとも、「この過程には意味がある」と思えたり、「ここを通過すればもう少しで光が見える」と僅かな突破口を探すことができるようになった。
良くも悪くも失敗にまみれ、失敗に対する過剰な恐れが消えたことが影響していると思う。
自分が重ねて来た選択肢は間違いだったのかと疑いたくなることが多いが、自分だけが持てる価値はこれだ、と日々細かな修正を続けられるように生きていきたいものだ。
②表面的な美醜への辟易
学生の頃からの考えがより強くなってしまった。ルッキズムとルッキズムで育った自分を心から辛く思い、ルッキズムで得をする人間に対する嫌悪感が日々大きくなっていく。
人間の美醜の感覚が苦しい。見た目が整った者の言うことが信用できない。彼らが自己責任論を振りかざそう日には、怒りがマグマのように吹き出す。
ただ、私も私の身が可愛い。そんな人間に少しでも取り入ろうとしてしまう。情けない。
同じフィールドで闘うのか、フィールドを降りるのか、別の価値で殴るのか。尊重することなど一生できそうにない。「若さ」や「見た目」などといったものに価値を感じてしまう自分が恥ずかしい。
ルッキズムとその弊害が失くなることは決してないだろう。どうすれば本能を飼い慣らせるのか。
③時間に対する考え方
仕事のおかげで今まで見ることができなかった世界が見えることには感謝している。しかし、ゆとりのない日々に慣れてしまうのは恐ろしい。
何のために生きているのか?何がしたいのか?もう一度見つめ直さなければ老いた時に後悔する。
既に、今の視点から見れば学生時代いかに無駄な時間を過ごしてしまったか、心が痛くなる時がある。
空虚に囚われた時間がなければ今の私がないのはわかる。しかし、明日に怯え続ける日々はそう長くは続かない。
どうすれば均衡が取れるのか?考え続ける必要がありそうだ。