大事に出来るものの範囲、脳のメモリ、行動ターン制限
ごく限られた範囲のものしか大事にできやしないだろう。
良い意味でどうでも良い関係を積み重ねる。その繰り返しがはたらくことだったりするんじゃないか。
だからこそ過敏になってしまう人がつまはじきにされる。
彼らは彼らの哲学で、柔らかく、優しく在ろうとしているだけだ。
しかし、数の暴力の前では、大きな年月の流れの前では、細やかさは圧殺されてしまう。
少し冷たいくらいの方が良いのかもしれない。少し鈍感なくらいが良いのかもしれない。だがそれが叶わない。過敏でいるつもりなどないし、過敏でいたくてそうなったことなど一度もない。
環境のせいにするのではなく、むしろ自分がどう在るかということに終始するのだろうな、とも思う。
痛いくらいに冷え始めた冬の入り口。体温で空気を掻き分けて歩く。価値観を鍛える季節になりそうだ。