怒りや、諦めといった類のもの
時々自分を見失うほどの怒りに囚われる。
叫びたくなってしまうような、握り潰したくなるような強い怒り。
協力や共助は名ばかりで、あらゆる主体がそれぞれの拡大再生産だけを考えているこの世界では、弱者や新しい概念だけでなく、暴力性や無神経が認められてしまう。
あの人はそういう人だからと。いざ自分が奪われる側に回った時は毛を逆立てて反抗するくせに、人の感性など容易には変わらないという事実が怒りを感じることにすら嫌悪感を抱かせる。
私もその中で育ってしまった。弱い私がさらに弱いものを叩いてしまう。私の時は排斥されていたと。認められていなかったと。一方で身に降りかかる火の粉は避けるように生活を重ねている。そして稀に厄介ごとに遭うと、とてつもない怒りを覚えるのだ。
怒っても仕方ないと言う人がいる。全くもってその通りだが、客観的に自分が悪くなくても引き下がらねばならないのか?面倒だからと頭を下げなければいけないのか?
多様な価値観という言葉はなんの意味も持たない。もともとあった人の営みが、時代に即して広く認識されるようになっただけだ。
生きづらさは普遍的に存在して、その土台の変革は結構だが、配慮で雁字搦めになることには疑問を覚える。
このように宣っても何も変わらないこともまた、認識している。目下は、暴力性、権力、意思決定を改めて学び、少しでもこの燃え盛る怒りを昇華する他はない。