「赤渡り」について
小学生の頃、「赤渡り」という造語があった。わかる方はわかるかもしれないが、「赤信号であるにも関わらず横断歩道を渡る」という意味合いである。
私は、「赤渡り」できない人間だった。真面目というより、臆病故に、規律やルールを破ることが出来なかったのだ。
誰かに怒られるのではないか、誰かからの評価が下がるのではないか、など、周りへの依拠が心を支配し、逸脱を行う気になれなかった。
かつて、自分の社会の中では、(小学生など皆そうかもしれないが)注目を集める人物や、その狭い社会の中で周囲を魅了していた人物は、この「赤渡り」を出来る人物だった。いわゆる、「ちょっと悪いくらいの方がモテる」という状態である。
私は、それを羨んでいた。そして同時に、蔑んでいた。何故真面目にルールを守っている自分が評価されず、悪いこたをしている連中が注目を集めるのか理解できず、苦しんでいた。卑しい根性である。
しかし、今日に至って思った。私は「赤渡り」できない人間で、そして、「赤渡り」できないことに悩んでよかった。
今、今日、やっと、周りに依拠することでなく、自分がどうしたいかが大事だということに気づけたのだ。
かつての自分は「赤渡り」をしないことで評価を得られると思っていた。「赤渡り」しないということに価値があり、そちらが正義だと思い込んでいた。しかし、もうそんなことに執着していること自体が違ったのだ。
彼らは「赤渡り」ができる人間ではなかった。「赤渡り」をするかどうかなんてどうでもよくて、ただなんとなく、決して選択的にではなく赤信号の横断歩道を渡っただけの人々だった。
何かしら夢中なことがあって、信号などどうでもよかったのだ。
私は、臆病で規律を重んじるあまり、そして彼らの行いが眩しすぎて、彼らが自信満々に行動していることが恨めしくて、「赤渡りをしない」というつまらないルールの土俵でしか比較の基準を見出せなかった。
「真面目さ」は、あまりに抽象的な概念・性質である。褒められたものではない。真摯に取り組んだり、情熱を持って取り組むことと、ただただ真面目であること全くもって違うのである。
具体的な行動と、それをしようと思った根拠や心持ち、意志が全てなのだ。
それを社会通念や常識、ルールの範囲で粗探しをするようにバッシングするのは、土俵違いもいいところである。
もうこれ以上、憧れや嫉妬をマイナスの感情として表出するのはやめよう。それでは自分を含めた誰一人として幸せになれない。
もういいじゃないか。全てがすごいと思ったことや、自分と全く違うことをしている人に正直に「すごい」と言えば。
そうして少しずつ自分のモチベーションにすればいいじゃないか。嫉妬は健全な感情だ。少しでも理想の姿に近づくために、自分のものにしていけばいいじゃないか。わざわざ暗い気持ちになる必要なんか少し足りともないのだ。
私は決して、「赤渡り」を推奨しているのではない。悪いことがかっこいいと、アウトローに憧れているわけでもない。
ルールや慣習を持ち出して他人を批判することが愚かしいことだったと言いたいのだ。優等生はもうやめてしまおう。何がやりたいか、その意志を見つめ直せと自分自身に問いたいだけなのだ。
どうか伝わってくれたなら、それほど嬉しいことはない。