覚え書き

有象無象の社会人のうちの一人が考えを整理する場所です。同じようなことを考えている方の役に立てれば幸いです。

「藍色無声」を聴いて

大変遅ればせながら、indigo la endの「藍色無声」というアルバムを聴いた。

キラキラと輝く大好きな曲たちのインストゥルメンタル。一つ一つの音が体に染み渡っていく。声が無いからこそ見える世界があって、こんなことまでしいたのか、という発見とともに心が綻んだ。

「夏夜のマジック」はいつまで経っても色褪せない。ギターがこんなに煌びやかな音だったとは、美しいコーラスに気を取られて聴き込めていなかったなと反省した。夏の夜に浮かぶ星のように、光っている。どこまでも歩いていけそうな広がりと裏腹に、サビでは閉じゆく夏に手を伸ばすような焦燥感も感じられ、厚くなる音がそれを盛り立てる。

「蒼糸」は急に冷えた秋の日だろう。突然空気が澄んだように感じ、少しばかり高く感じる音を繋ぎ合わせ、手繰り寄せるように気持ちを通わせる。愛して欲しい気持ちとはうらはら、無為に重ねてしまう「さよなら」をストリングスが縁取る。

「さよならベル」透き通るような初夏の空の下。ギターが別れを張り裂けそうな声で唄う。駆け抜ける季節、じりじりと喉が渇くような感覚に襲われる。

「想いきり」はブラウン管のテレビで見たトレンディドラマのようだ。あの頃分からなかった登場人物の心情を、今なら少しでも掬い上げることができるだろうか。

声が無いから、言葉がないからこそ至る考えがある。大好きなものには、様々な角度から向き合っていたいものだ。大切なことを教えてもらった気がする。

 

雑記0202

ルッキズムと、ルッキズムに毒されている自分に嫌気がさして、もう限界を迎えそうだ。

 

自分の感性に水をやって来たつもりでいたのだが、この有様はいったいどういうことなのだろう。

 

どんなに善人ぶったって、外見に囚われてしまう。そもそもこの考え自体がそうだろう。

 

「自分らしく」やら、「自分を愛して」などの詭弁はもうたくさんだ。どんな事情があったとしても、人は本能で美醜を判断するじゃないか。

 

そんな世に晒され、無傷でいられるはずがないだろう。

24回目の始まり

あっという間に24回目の年が始まった。去年のことを少し思い出してみようと思う。

 

・世間のざわめきに耐えられず、心身に不調をきたしていた。社会にまともに溶け込んで数ヶ月の中、私たちの2020年を壊したウイルスに直面し、右往左往するばかりだった。

加えて、自分がいかに目の前のことに集中できていないかを痛感した。例えば、短時間で自分の行動を誰でもわかる形に明文化すること、目の前に分からないことがあればそのままにしてはならないこと、様々なことを自分なりに定義し、一旦は許可を取って自分の方向性を示しながら進めなければならないこと。

そしてこれは何かにやらされることではない。何事にも取り組む時も根底にあるべきものだ。その方が私自身が幸せになれると実感したから。

私がずっと追いかけ続けている背中、もう影も形も忘れてしまったけれども、悔しくて悔しくてたまらず走っていた頃の自分に教えたい。しかし、手痛い思いをしなければ覚えないことが多い。その事実に少しだけ笑って、私自身を撫でてやらなければならないのだろう。

ともあれ、不調も失敗も、何かもこの天災のせいにしてヤケになってしまいたかったところから何とか自分を保つことができたのは、趣味、恋人、友人のおかげだと思う。

 

・趣味への向き合い方が深化できたと思う。今までは自分の記憶の中や、狭い箱庭の中でしか動けなかったが、今は海を見にいく勇気が出てきた。

そして自分の足を何度も使って覚えていく覚悟ができた。

もちろん勝ち負けではないけれど、自分が勝ち筋だと思う行動要件を何度も見直していく、その過程で磨かれるものもあるのだと思えた。

上記のウイルスのせいで動き回ることが憚られる世情ではあるが、チャンスを狙って頭と足を動かし続けたい。

 

・1年間を何となく過ごしてしまった感じがある。ここは反省している。

伏していた時も、行動していた時も、目の前のことに必死で、広い視野で考えることができていなかったように思う。

今がとにかく取り組む時期なのはもちろんだが、それ以上に自分をどう育てていくべきなのか、立ち止まって考えることができると良い。

一個の考えに思い至った時は、必ずそれを批判する考えを用意するのだ。恩師が教えてくれた正しい批評、反駁を実践するのだ。

 

・経験にペイできた。今まではこせついた金の使い方をしていた自覚があるが、本物を知りにいくことができた。

三つ星の次の日は食事抜きでも良い。偏っていて良い。自分を作り上げるものに対価を払う、フリーライドで得られるものは誰でもアクセス可能なのだ。

 

大きく、上記4点だろうか。

自分自身に強く絶望する日も少なくないが、心を保ち、少しでも私がなりたいと思う姿へ向かって。

 

当面はまた背中を追うだろう。ずっと悔しいと思えますように。いまはそれでいい。

 

今年も歩いて、止まって、走っていられますように。

雑記1027

脳裏によぎるぼんやりとした哀しみ
どんなものにも終わりが来る、それがとてつもなくこわい
あいしているもの、ひと、こと
すべて少しずつしんでいく
僕はたまらなくかなしくて、胸がちぎれそうだ

 

母と手を繋いで歩いたスーパー
駅前のパン屋
ジンジャーエールの瓶
60円のアイスキャンディー

 

思い出すと込み上げてくる
いつかなくなる、失うことにすら気づかないのかもしれない

後悔のないように愛し切らなければならないのか
どんな形でも後悔は残るだろうに
よせては返す哀しみとどう付き合っていけばいいものか
僕にはもうわからない

どうでもいいことばかり覚えている
脳のメモリーを想い出ばかりに取られている

怒りや、諦めといった類のもの

時々自分を見失うほどの怒りに囚われる。

叫びたくなってしまうような、握り潰したくなるような強い怒り。

協力や共助は名ばかりで、あらゆる主体がそれぞれの拡大再生産だけを考えているこの世界では、弱者や新しい概念だけでなく、暴力性や無神経が認められてしまう。

あの人はそういう人だからと。いざ自分が奪われる側に回った時は毛を逆立てて反抗するくせに、人の感性など容易には変わらないという事実が怒りを感じることにすら嫌悪感を抱かせる。

私もその中で育ってしまった。弱い私がさらに弱いものを叩いてしまう。私の時は排斥されていたと。認められていなかったと。一方で身に降りかかる火の粉は避けるように生活を重ねている。そして稀に厄介ごとに遭うと、とてつもない怒りを覚えるのだ。

怒っても仕方ないと言う人がいる。全くもってその通りだが、客観的に自分が悪くなくても引き下がらねばならないのか?面倒だからと頭を下げなければいけないのか?

多様な価値観という言葉はなんの意味も持たない。もともとあった人の営みが、時代に即して広く認識されるようになっただけだ。

生きづらさは普遍的に存在して、その土台の変革は結構だが、配慮で雁字搦めになることには疑問を覚える。

このように宣っても何も変わらないこともまた、認識している。目下は、暴力性、権力、意思決定を改めて学び、少しでもこの燃え盛る怒りを昇華する他はない。

 

何者でもないことに耐えられるだろうか

自分は特別ではない。そう気づいたのはいつだったろうか。

そして、それを苦しいとは思わなくなったのもまた、いつ頃からだったろうか。

なまみの私にはなんの魅力もなくて、それを突きつけられたような学生時代。

頭脳明晰ではなく、エネルギーに溢れるわけでもなく、何に恐れているのかわからないままもがいていた日々。

わたしに価値はない、そう思って全てを投げ出したくなった日々。

今はもう、そうは思わない。

捉え方一つ、考え方一つで、こんなにも自由になれる。

辿り着けない領域や人があって、その乖離に苦しむけれど、

私はどこまでも私だ。

だから、蟻の一歩を、私だけの方向に重ねよう。

それでいい。今はそれで、いい。

明文化

唯一の抵抗

 

頑張ろうとしないで頑張れる人には一生勝てない、そして楽しんでいる人にはもっと勝てない

 

そして勝ち負けではないと思える才能

いつから「奪う」「奪われる」でしか思考できなくなっていたのだろう

 

「日本人は他人が得をすることに嫌悪感を覚える」と何かの記事で読んだ気がする

ずっとわからなかったその理由が、ここしばらくでふと理解できた気がする

 

何に金を払うのか 何に時間をかけるのか 何になら諸手を挙げるのか

価値の概念や聞きかじったソフトパワー

あぁ、こういうものか 社会においてもこうなのだな

 

所詮内分泌の影響だと思いたい 人道を説くより、救いを語るより、

人は動物で、社会性だけで生きているわけではないと思う方がよっぽど早いだろう